概要
日本の集落や家屋にみられる、自然との境界の曖昧さによる畏怖や、里山や鎮守の森のように自然と共にある生活が畏敬や感謝になり、妖怪は、これらの怖れや禍福をもたらす存在として具現化されたものである。「神さび」[1]という言葉に代表されるように、古いものや老いたものは、それだけで神聖であり神々しいとされてきた価値観も、妖怪(九十九神)が古い物や長く生きた物の憑き物という解釈と重なる。そして、現在では妖怪の存在の実証はされておらず、科学が未発達だった時代の呪術的思考の産物[2]や迷信とされるが、日本人の心のあり方を表す一つの事柄でもある。
歴史
古代・中世
* 1世紀初頭 - 今の中国の書物『循史伝』に「久之 宮中数有妖恠(妖怪) 王以問遂 遂以為有大憂 宮室将空」という記述があり、「人知を超えた奇怪な現象」という意味で、妖怪という言葉が使われている。
『百鬼夜行絵巻』 作者不詳(室町時代)
* 宝亀8年(772年) - 『続日本紀』に「大祓、宮中にしきりに、妖怪あるためなり」という記述があり、同様になにかの物を指すのではなく、怪奇現象を表す言葉として妖怪を用いている。
* 平安時代(794年-1185年/1192年頃)の中期 - 清少納言は『枕草子』のなかで「いと執念き御もののけに侍るめり」と記し、紫式部も「御もののけのいみじうこはきなりけり」という記述を残しており、「もののけ」という言葉がこの頃に登場する。
* 洪武3年(1370年)頃 - 『太平記』の第5巻には「相模入道かかる妖怪にも驚かず」という記述がある。
* 天明8年(1788年) - 『夭怪着到牒』著者:北尾政美が出版される。これは黄表紙本の妖怪図鑑であるが、その序文には「世にいふようくわいはおくびょうよりおこるわが心をむかふへあらわしてみるといえども…」とあり、これはこの時代からすでに、妖怪を研究しながらも、その妖怪の実在性を疑問視していた人がいたことを示している。
江戸時代
この時代の印刷・出版技術の発展とともに、出版文化が発達していき、黄表紙[4]などによって盛んに題材として妖怪が用いられた。
そしてそれらの書籍を扱う「貸本屋」の普及や利用により、庶民の中で各々の妖怪の様相が固定し、それが日本全国に広がっていった。たとえば河童に類する妖怪は江戸時代以前には、日本全国に多くの様相や解釈があったが、書籍の出版によって、それが現在のいわゆる河童に固定されていった。またその他の刊行物を含め、民間で伝承されたものとは別に、駄洒落や言葉遊びなどによって、この時代に創作された妖怪も数多く存在し、現在でいえば妖怪辞典のような位置づけであろう鳥山石燕の『画図百鬼夜行』はその一例である。また、江戸時代に百物語のような怪談会が流行する中、怪談の語り手がまだ世間に知られていない未知の怪談・妖怪を求めた末、個人によって妖怪を創作してしまうといったケースも創作を増長した要因の一つと考えられており、そうして創作された妖怪の中には傘化けや豆腐小僧が知られている[5]。
また「浮世絵」などの画題としてもよく描かれ、有名な妖怪を描いた絵師に歌川国芳、月岡芳年、河鍋暁斎、葛飾北斎などがおり、また、狩野派の絵手本としても『百鬼夜行図』が描かれた。
明治時代以降
明治維新の西洋化思想は、海外の出版物の翻訳にも影響し、特に西洋の物語が持て囃された。貧乏神と疫病神と死神は並んで語られ、死神は古典落語でも描かれ、日本の妖怪や神と誤解されるが、三遊亭円朝が明治時代にグリム童話の『死神』か、イタリアのオペラ(歌劇)の『靴直クリピスノ』の翻訳本を参考にした創作落語の『死神 (落語)』で、巷に広まったことが知られている。このように西洋の物語に描かれる怪物も庶民に認知され、誤解からの日本の妖怪としてや、また近代史における「西洋の妖怪」として、日本でも相応の歴史がある。
その一方で日本の古典文化は排斥され、唄や踊りの伝承書が焚書された例もあり、そして科学的考察が至上とされ、妖怪もその他の迷信の類ともに、排斥される傾向にあったが、江戸末期から昭和や平成に至るまで、その時代時代の民俗学者の著書の発行と民俗学による権威付けが、妖怪という日本の民族文化の衰退の歯止めとして、一役買ったことは否めないであろう。
現代
近年から現在に至るまで、妖怪は様々な媒体(マスメディア)で紹介されてきたため、老若男女が知るものとなっている。戦前の紙芝居や戦後の漫画産業の振興や昭和40年代(1970年前後)まで続いた貸本屋、テレビ放送の普及などもその認知やある意味での親近感につながっている。そして現在では、遠野物語にえがかれた岩手県の遠野や、水木しげるの出身地でもある鳥取県などに代表されるように、妖怪は観光資源としてや地域活性にも役立てられていて、京都には町家を改装した妖怪堂という店があり、店主が京都の妖怪案内をするというようなものまである。
このように様々な形で妖怪が伝承されてはいるが、昔ながらの年長者や年配者による口伝えが少なく、口碑伝承によるその地域ならではの事情や背景も伝わりにくいことや、九十九神に代表される古典的な妖怪は、自然が身近にあって始めて現実的なものとして捉えることのできる狸(たぬき)や狐(きつね)や鼬(いたち)であったり、郊外や地方のその地域おいて、1次産業に携わるような社会環境であっても、もう見ることのできないような、いわゆる古民具などに代表される硯(すずり)や釜(かま)や釣瓶(つるべ)であったり、昔懐かしい生活としての「小豆洗い」や「泥田坊(田作りの土起し)」であるため、昭和一桁の世代でさえ疎開を経験していなければ、その妖怪のもととなる「物」が、「身近でない・良くわからない」こともある。古典落語と同じようにその言葉の意味や、言葉は解っていても現実的に形として想像できないといった、社会そのものが近代化してしまったことが、妖怪という日本の古典文化の継承に影を落としている。
また一方では、媒体で紹介される妖怪は民間伝承の古典的なものだけでなく、江戸時代にもあったように現代でも盛んに創作妖怪は作られ、学校の怪談や都市伝説などから、口裂け女、トイレの花子さんなど新たな妖怪が誕生している。1975年以降に生じた口裂け女のブームの頃から、これらの都市伝説上の妖怪がマスコミで「現代妖怪」という総称で表現されるようになった[6]。この総称は近年にも都市伝説を扱った書籍で用いられ[7]、特に妖怪研究家・山口敏太郎が自著書の中で多用している[6]
詳細は「怪談都市伝説#現代の妖怪」を参照
1970年代には怪奇系児童書の一環として児童向けに、百科、図鑑、事典などの体裁をとって妖怪たちを紹介する書籍が多く刊行されたが、それら書籍中の妖怪には、古典の民間伝承、怪談、随筆などのものに混じり、古典上に存在しない創作物と思われる妖怪が多いことが現代の研究により指摘されている。特にがしゃどくろ、樹木子などがその種の創作物として知られる。近年の妖怪の創作者としては佐藤有文らが知られ、妖怪漫画家として活躍する水木しげるの妖怪研究関連の著書の中にも創作妖怪があると指摘されている。このように古典上の妖怪たちの中に現代の創作物を混ぜてしまうことは、伝承をないがしろにしているとして非難や中傷の槍玉に挙げられることも多い[8][9]。しかし前述のように、江戸時代にはすでに鳥山石燕らによる妖怪の創作が多く行なわれていたため、古典上の創作が許されて現代の創作が非難されることを理不尽とする意見もあり[8]、また、こうした書籍類でさまざまな妖怪を紹介することが、当時の年少の読者たちの情緒や想像性を育んだとする好意的な見方もある。
* 本所七不思議
* 皿屋敷(播州皿屋敷、番町皿屋敷など)
* 四谷怪談(東海道四谷怪談など)
* 小泉八雲『怪談』所収
o ろくろ首
o 耳無し芳一
o 雪女
o むじな
* 牡丹燈籠(灯篭)
* 真景累ヶ淵
* おいてけ堀
* 八反坊
* 鍋島藩の化け猫騒動
* 学校の怪談 - 都市伝説に近い面がある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』